死の顔・花子
2001年8月11日 杉山 隆
目 次
1.
はじめに
2.
二系統の≪花子のマスク≫
3.
ロダンと花子の出会い
4.
【死の顔】制作の経緯
5.
女優・花子の印象
6.
ロダンのテーマとしての花子の重要性
7.
【死の顔・花子】
1.はじめに
[ロダンと日本]展を2001年8月11日、愛知県美術館で鑑賞した。6時間の在館中4時間≪花子≫の前にいた。オーギュスト・ロダンは、1906年から1912年にかけて≪花子≫をテーマに素描や水彩画を30点超、彫刻作品58点を制作した。一人のモデルでこれほどの量は、ロダンにはない。ロダンのモデルになった唯一の日本女性が、太田ひさ(1868-1945年、愛知県出身の女優・花子)である。一体、≪花子≫のどこに、ロダンは魅せられたのであろうか?作品の全貌が日本で見られるのは、今回が始めて。彫刻【死の顔・花子】に絞って考えてみた。
2.二系統の≪花子のマスク≫
A.ロダンは、1840年11月12日パリに生まれ77歳の1917年11月17日に死去した。1890年代半ば以降、ロダンは部分の形態に取り組んでいた。ロダンは、この方が完全な形態よりも凝縮されているため、より強い表現力を持たせうると気づいたのだった(A.L.N.R.作品解説、静岡県立美術館/愛知県美術館編集『ロダンと日本2001カタログ』53頁)。
そして、≪花子≫の頭部をモティーフに制作された彫刻作品は、その表情によって二つに大別される。一方は、放心したような平穏なもの、他方は眉間に皺を寄せて虚空を睨んだ激烈なものである。ロダン美術館はこれらを、表情や頭髪の有無、頭部像・マスク・胸像の種類によって7種に分け、さらに大きさによって9種に分類している(南美幸「ロダンと花子」『前掲書』37・39頁)。
しかし、ロダンにとって、≪花子≫の顔は苦しみの観念と切り離せないものだった。引きつった唇やひそめた眉、眉間に浮かぶ皺を持った、「死」にふさわしい作品である(A.L.N.R.作品解説、Cladel、1918、p.165、『前掲書』60頁)。
3.ロダンと花子の出会い
1902年に34歳でヨーロッパに渡った花子は、プロモーターのロイ・フラーとともに1906年にマルセイユ植民地博覧会の公演にやってきた。ロダンもまた、カンボジアのダンサーの一行を追って、マルセイユを訪れていた。ロダンは、旧知のフラーの勧めで、「左甚五郎の京人形」や「芸者の仇討ち」「ハラキリ」等を演じていた花子の舞台を見物した。とりわけ、仇討ちの花子が桜の木の下で斬られて悶死する断末魔の表情に、強い衝撃を受けた。幕が下りると、ロダンは小屋のマネジャを通じて花子に面会を申込んだ。ロダンは、ポケットから紙と鉛筆を出して、花子の姿をスケッチし、名刺を渡して、パリへきたら是非寄るように、と言い残して立ち去った。
フラーは1913年、この時の模様を次のように表現している。「彼女の顔は不動になっていき、まるで石になったかのようだったが、目だけは強烈な生気を帯び続けた〔・・・〕かっと見開いた目で、彼女はたった今自分を襲ったばかりの死を見つめていた」。ロダンが表現しようとしたのは、今まさに死なんとする花子のこの表情である(A.L.N.R.作品解説、『前掲書』50頁)。
全身の力を目に込めて生命を表している花子の演技の心に、ロダンは感動したのである。ロダンは、花子の表情を通して生命というものを形にしたい、と考えた。こうして花子は、衰えかけたロダンの情熱に炎をともしたのであった。ロダン66歳、花子38歳の出会いである。
4.【死の顔】制作の経緯
1925年1月6〜10日付『岐阜日日新聞』に掲載されたインタビューを信じるならば、花子によると、彼女が最初にモデルをつとめたのは1906年9月だったが、ロダンは出来上がった肖像が気に入らず、1907年に改めて彼女にポーズを取らせたという。
以下、記事の引用。「・・・アトリエの仕事場で30分ばかりモデルになっている。しまいには飽きて来てチャンとしておれない。はじめ15分位までは眼が据わっているけれども後は変わってくる。・・・私は疲れましたというと、それでは少し休もうというので・・・私を椅子に掛けさせて、・・・チョコレートを半分自分に喰って残り半分を私の口へ入れてくれまして私の手を撫でたりして私の機嫌を取ってくれ、・・・そのうちに・・・『死の顔』というのが一つできあがりました。・・・どうしても眼ができないといってロダンさんも怒る、私も怒る。・・・せっかくできたと思う時分にへらを突き込んでぐりぐりと眼の球をえぐってしまいその日はそれでおしまいになるそんな事が幾日も幾日も続いた・・・。初め芝居で見た時の眼と違うといってロダンさんが承知しない。」(澤田助太郎『ロダンと花子』63-64頁)
こんな経緯を経て、カタログ番号52の【死の顔】が制作された。ロダンは花子に2点の花子像を贈ると約束していたが、没後の1921年にフランス国からカタログ番号52と56の彫刻作品が花子の手に届けられた。
5.女優・花子の印象
本展に出品された25点のデッサンの大半は、裸体の花子を黒鉛の速筆で線描し、腰を落として膝を曲げ、手振りをした、日本舞踊のような踊りの所作を捉えている。連続する踊りの動き、あるいはそれを作り出す人間の肉体的本質を追っている。
ロダンの花子に対するコメントを、ポール・クセル筆録高村光太郎訳『続ロダンの言葉』から引用する。「日本の女優ハナ子を試作したことがあります。この女にはまるで脂肪がない。彼女の筋肉は、フォクステリアと呼ぶ小さい犬の筋肉のように、はっきりと見えて出ています。その腱の強い事といったらその附着している関節の大きさが四肢の関節と同じくらいなのです。彼女の強壮な事は、一方の脚を直角に前方へ上げて一本の脚だけで自分の好きなだけ長く立っていられるのです。まるで木のように地面へ根を張っているようです。ですから彼女はヨーロッパ人の解剖組織とは全然違うものを持っているのです。それでいてその奇妙な力の中に立派な美があります。要するに、美は至るところにあります。美がわれわれに背くのではなくて、われわれの眼が美を認めそこなうのです。美とは、性格と表現です。ところが自然界に人体ほど性格を持っているものはありません。人体はその力やその優美さで最も変化多い図様を現出します」(南『前掲書』37頁)。
ロダンが『The World』誌の記者Anonymeに打ち明けた花子の印象は次のようである。「最初は、その小さな体躯と異国的な顔立ちから、猿を連想しました。だが彼女が動き始めると、すべての身振りや態勢がなんとも優雅で、衣服にはリズムが満ち溢れていました。彼女が服を脱いでいるとき、私は彼女の体型に何か特別なものがあるのではないかと期待していました。だがそうではなかった、彼女の魅力はすべて、その動き[ムーヴマン]と巧みに作られた着物の衣紋にあったのです。・・・彼女はじっとしていると、動脈の脈打ちや鼻腔の動きにしか生命を感じないほど不動を保っていました。」(『前掲書』41頁)。
ロダン美術館素描部長のクローディー・ジュドランは、「ロダンが花子を素描する」で以下のようにしめくくった。「(花子をモデルにした)これらの作品が持つ多様性や独創性は、ロダンが花子に並外れた興味を抱いた証である。彼は、西洋人の目にはきわめて風変わりなものに写る彼女の個性を、素描や彫刻を通して理解したのだった。」(『前掲書』42頁)。
6.ロダンのテーマとしての花子の重要性
芝居を土台とした花子の豊かな表現性は、ロダンにとって肖像制作の原理を具現化するためのモデルであった。そして、ロダンが花子によって提示した美の方向性は、「肉体の美」によって「魂の美」を捉えようとした新しい美のパラダイムの一端であった(南『前掲書』38頁)。
ロダン著ポール・グセル記吉川淡水訳『ロダンの芸術』はいう。「実際芸術家は写真でなし得るような、外観上の面貌を再現することは出来ないのです。芸術家は、面貌の各々異なった形状を正確に映し出すことは出来ないのです。然し性格をも再現し得ない芸術家は些かも賞賛に値しないのです。芸術が成し遂げようとする酷似は霊性そのものなのです。」(『前掲書』38頁)
ロダンは、花子が舞台で演じた「死を察したその目つき」を再現することで、かえって生命というものを表現できると考えた。そして、その結実が【死の顔・花子】である。
7.【死の顔・花子】
≪花子≫彫刻は、石膏、テラコッタ、ブロンズ、パート・ド・ヴェールという多種の材質で制作され、徹底的に細部にこだわり、ロダンの手の痕跡を多く残している。「筋肉の動きによって内面の気持ちを出すため」である(高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』岩波文庫227頁、南『前掲書』38頁)。
そして、【死の顔・花子】に共通する特徴をA.L.N.ロランは、次のように解説する。「引きつったようにゆがむ口元、こめかみまで引かれた半開きの目、眉間にくっきりと刻まれた皺」(『前掲書』58頁)「しかめた眉、やぶ睨みの目、半開きの口」(同50頁)、「眉間はくぼませて悲劇性を際立たせた」(同51頁)、「引きつった唇やひそめた眉、眉間に浮かぶ皺を持たせる」(同60頁)と。
ロダンは、肉体の動きは生命の輝きだと考え、そして人の表情は心の輝きだと思い、その思いを込めて作品を生み出したのである。
ところで、花子はモスクワの演劇学校で演技指導をしている(構成里中満智子・作画大石エリー『ロダンに愛された国際女優花子』153、172-177頁)。1912年11月頃のロシア巡業の時には、モスクワ芸術座の坐頭スタニスラフスキィやチェーホフ夫人を「お友達と呼ぶ」ようになってもいた(澤田『前掲書』109頁)。ロシアの花子は、本国の人々が知らない所で、ロシアと日本の間に火花の散るような烈しい文化衝突を演じていたのである(澤田・210頁)。坂内徳明・亀山郁夫『日本とロシア』は、「東洋と西洋を結ぶ一種のトリック・スター的な存在として、ヨーロッパはもとよりロシアの芸術の春の到来に、ささやかながら貴重な貢ぎものをした」と結んでいる(澤田・同上、参照・南『前掲書』39頁)。
「一拍おいてから強く!力をためておいてから解き放つ、これが効果的な見せ方です」と日本の「見得(みえ)」を教える花子のモスクワでの演技指導において、夫・吉川馨のメッセージ≪誇り≫が生かされた。「あなたの内なる心の奥から湧き上がる気力と情熱、生きる力の強さ、それらの源となっている誇りを愛しています」、これが吉川の最後の手紙となった(里中『前掲書』167、176頁)。
眉間に皺を寄せて虚空を睨んだ激烈なロダンの【死の顔・花子】は、一生懸命生きているか、と執拗にわたしに問い掛けている。